よく「勝負は時の運」と言われるが、やはり勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるというのが本来の姿ではないだろうか。
いまは、かつてない不況で、経済界はお互いにどこも苦しいのは事実である。だから、業績があがらない場合、「これは不景気のせいで、仕方がない」というように考えても、それは当然といえば当然だと言えよう。
しかし、そういう“不況だから”ということを、自分自身に対する弁解とし、それをもって、みずからよしとしているとこがありはしないか。かりにもそういうことがあれば、それは成功につながるものではないと思う。
不景気が自分のせいではないにしても、はたしてこれまでの好景気の時に、いわゆる「治に居て乱を忘れず」というように、それなりの備えがしてあったかどうか。
そうしたことが平時からできていれば、不景気だからといって、それがそのまま、業績の悪化を生むとはかぎるまい。
とかく、うまくいかない原因を他に求めて、みずから安んじたくなるのも人間の一面であろうが、やはり経営者たるものは、それではいけない。
原因は、すべてわれにあり、という思いに徹してこそ、失敗の経験も生かされ、成功への道がひらけてくるのだと思う。
(『経済談義』昭和51年10月20日 読売新聞掲載)
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(江口克彦のコメント)
「治に居て乱を忘れず」という言葉があります。同じ意味で、「安(あん)に居て危(き)を思う」とか、「太平にも乱を忘るべからず」などがあります。
いずれも、順調なとき、好況なときに、逆境のとき、不況のときのことを想定して、その対策をしておきなさいということだと思います。
逆境、不況になって右往左往するのは、「物、壮(さかん)なれば、すなわち老(お)ゆ(物壯則老)」(『老子』)という道理を忘れていたのか、軽視していたからでしょう。
確かに「これは、世の中全体の災禍、不況のせいで、仕方がない」と開き直っても、諦めても、実際に、「痛い思い」をするのは、自分自身なのです。
日頃から、平時から、災禍のとき、不況のときになったときの、それなりの対策をしていれば、災禍だから、不況だから、といって、狼狽(うろた)えることも、右往左往することもなく、経営が極端に悪化することもないでしょう。イソップ寓話の『アリとキリギリス』は、お互いによく承知していると思います。
不況時、これはもう仕方ないとしても、今一度、この寓話の意味するところを思い起こし、不況時後の平時の経営のあり方、商売の進め方を、よくよく考えておくことが大事ではないでしょうか。
ゆめゆめ、うまくいかない原因を、不況のせいにする勿(なか)れ。経営者一人の責任、いっさいの原因は、災禍に備えなかった「われにあり」と思う経営者が、結局は、不況の終息に間髪入れず、脱兎の如く飛び出し、いち早く立ち直ることが出来ると思います。
松下幸之助は、事に当たり「深刻に考えず、真剣に考える」ことが経営では大切であると言っています。
自分でコントロールできないことを手放し、コントロールできることに集中するということではないでしょうか。
しかし、何事も一人で解決するには限界があるといわれています。一緒に解決策・打開策を考えませんか。