松下幸之助という経営者は、常に「死」を意識しながら、生き、経営をしていたのではないかと思う。無学の自分が生涯を全うできたのも、あるいは、凡庸な(と、松下さん自身は思っていた)自分が、とにかく経営者として、大きな成功をおさめることができたのも、そういう生き方、経営への取り組みが、自分でも予想もしなかった成果を生み出したということだろう。いわば、「命がけの生き方」、「真剣勝負の経営」、そういう生き方、経営の仕方をしていたように思う。
和歌山県の片田舎に生を得て、その時は、田地田畑も有する小金持ちの家であったが、松下さん4歳のとき、父親が米相場に手を出し、失敗。そして、家族10人は離散。松下さんは大阪船場に丁稚奉公。それはともかく、両親を含めて、家族の7人が結核で、松下さんの10代で亡くなっている。「死」を考えざるを得なかっただろう。
まして、20歳頃に、結核の初期症状(松下さんは、そう言っていた。)となった。医者から故郷に帰って静養せよと言われたらしいが、もう帰る故郷はなかったし、例え、故郷があったとしても、その日から生活ができない。そこで23歳のときに、猪飼野(現在の大阪市生野区辺り)で、自分で考案したプラグを製造し、起業する。(翌年、大開町の移転)。起業すれば、「自分の養生したいときに、養生できるからな」と笑いながら、話を時折してくれた。
その起業して間もなく、「どうも体の具合が悪いんや。で、医者に行こうと。その途中で、血ィはいてな。そいで、これはあかんと。まあ、これで死ぬんかいなあ、と覚悟したな」。
松下さんの10代は、次々の家族の「死」、20歳前後からは、自分の「死」。そういうことで、常に、松下さんは、「死」とともに歩んだ人生であり、経営であったと言えよう。それだけに、松下さんの生き方、経営への取り組みは、鬼気迫るものがある。「死」を覚悟した者ほど、強いものはない。ひ弱そうに見える外見からは、想像すらできない松下さんの「強さ」は、常に「死」と向き合っていたからだろう。
経営者の皆さんに、「死」を常に意識せよとは言わない。だが、少なくとも、親鸞の「明日ありと 思う心の仇(あだ)桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」の気持ちだけは、しっかりと心に留めて、経営に取り組むべきではないだろうかと思う。すでに述べたが、松下幸之助さんの「心を許して遊ぶような経営者は、経営者たる資格はない」という言葉の重さ、深さを噛みしめたい。
松下幸之助は、事に当たり「深刻に考えず、真剣に考える」ことが経営では大切であると言っています。
自分でコントロールできないことを手放し、コントロールできることに集中するということではないでしょうか。
しかし、何事も一人で解決するには限界があるといわれています。一緒に解決策・打開策を考えませんか。