小学校さえ中途で奉公に出た私にとっては、学校・学生姿というものが、やはり大きな魅力だったのです。
ことに私が、奉公していた自転車店のお向かいの家には、私と同じ歳の男の子がいて、寒い朝、私が真っ赤になった手をふうふう息で温めながら、ほうきを使い、冷たい水で家の表の拭き掃除をしているとき、
「行ってまいります!」
と元気な声を投げて学校へ出かけていたのです。
私は思わず、拭き掃除の手を止めて、その後ろ姿を見送りながら、なんとはなしに小さなため息をついたものでした。学校へ行きたいという気持ちはひどく切実であり、その羨ましさは、言うに言えないほどだったように思います。
そのたびに、私は、我と我が身を叱り、慰めて、
「身分が違うのだ。望んでも叶わないことだ。諦めなさい」
と、心の中で言い、手を切る冷たい水で雑巾(ぞうきん)を絞ったものでした。
(『若さに贈る』昭和41年 講談社刊 21頁)
※※※※※※※※※※※※※※※※※
(江口克彦のコメント)
松下幸之助さんは、当時、10歳前後。この松下さんの気持ちを思うと、胸つまる思いがするのは、私だけでしょうか。
学校へ行きたいという切なる思い。ですが、現実は、通えない。学校に元気よく行く同じ歳の男の子の背中を、どのような思いで、幸之助少年は、しばし見つめていたのでしょうか。察するに余りあります。
しかし、多分、このとき、松下さんは子どもながらに悟った、いわば、この瞬間、「諦観」し、気持ちを切り替えて、自分は自分なりの歩み方をしようと、敢然と決意し、人生を力強く歩き始めたのだと思います。
「諦観」とは、「いまの自分を明らかにする」こと。「諦」は「あきらめる」と読みますが、それは「明らかにする」ということ、「道理を観る」ということ。ということは、幸之助少年は、このとき、はっきりと自分は自分。人は人。諦観をもって、自力で歩き始めたと言えるのではないでしょうか。
それ以降、松下幸之助さんは、他人を見ずに自分を見る。他人を羨むのではなく、自分を高めることに心を用いるようになったと思います。
その結果、自主自立、恐る恐るながら、一歩一歩、自分の足で歩きながら、確実に自分をつくりあげ、そして、のちに大きな成果を勝ち得るのではないでしょうか。
自分は恵まれていないと意気消沈し、自暴自棄になるのではなく、諦観して、自分なりの歩き方を恐る恐るでも、確実に歩いていくことが、結局は、大きな成果を得ることが出来るということを、松下幸之助さんは、身をもって、私たちに示してくれたと言えると思います。
ところで、松下さんが、船場の丁稚ではなく、学校に行っていたら、のちの「松下幸之助」はあったのでしょうか。
松下幸之助は、事に当たり「深刻に考えず、真剣に考える」ことが経営では大切であると言っています。
自分でコントロールできないことを手放し、コントロールできることに集中するということではないでしょうか。
しかし、何事も一人で解決するには限界があるといわれています。一緒に解決策・打開策を考えませんか。