ぼくの母は、自分の子どもに対して精一杯の愛情をそそぐというような、どこにでも見られる、いわば平凡な母親でした。母は、優しく女性的な人でしたね。
いまでもぼくはね、大阪に奉公に出る9歳のぼくを、紀之川駅まで見送ってくれた母の姿をはっきり心に浮かべることができますよ。
「体に気ぃつけてな、精出して奉公先のご主人にかわいがってもらうんやで・・」
と涙を浮かべて、ぼくに言ってくれました。
汽車が出るまでしっかり握って離さなかった手の温かみ、隣りあわせた乗客に、
「この子は大阪までまいりますが、初めての汽車の旅ですので、どうかよろしくお願いします。あちらに着けば迎えにきていますから・・」
と一所懸命に頼んでくれたことなどが、ぼくの脳裡に懐かしくも、ありがたい思い出として残っているのですよ。
いま静かに考えてみますと、末っ子の、可愛い9歳の子供を、自分の膝元から遠くへ手離さなければならなかったということは、母としては、この上もなく、寂しく、つらいことだったと思いますね。
そして、おそらく、それからの母は、大阪へ行ってからのぼくの幸せ、健康を、言葉では言いあらわせないくらい、念じていてくれたように思うのです。
この、溢れるような、ひたすらな母の愛情が、いまなお、ぼくの心に脈々と生き続け、ぼくを守り、温かく包んでくれているように思うのですな。ぼくが今日あるのも、ぼくの将来を心から祈ってくれた母の切なる願いの賜物だと思います。
(『人生談義』・松下幸之助 最後の著書 92歳〜94歳)
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(江口克彦のコメント)
9歳の松下幸之助さんは、まだ見ぬ地・大阪船場への思いもあり、寂しさは、少なからず減じていたかもしれません。事実、私との話で、「その時は、寂しさもあったけどな、船場への興味もあり、寂しさ半分、興味半分やったな」と話をしていました。
しかし、「母親はなあ、つらかったやろうと思うな、ワシ、末っ子やからなあ。いま、その時の母親の心を思うと、切ないわなあ。うん?その時の母親の顔は、この歳になっても、よう覚えとるよ」。
その母親も、9年後、松下さん18歳のときに亡くなります。父親も11歳のとき、既に亡くなっていますが、とりわけ、母親の死の知らせを受けたときには、人知れず、涙を流したのではないかと思います。
いずれにせよ、この時の母親の寂しげな顔、悲しげな顔が、その後も折々に脳裡に浮かび、その母親を喜ばせたい、笑顔にさせたいと思いつつ、懸命に事業に取り組み続けたことも、松下さんの成功の一因ではないかと思います。
松下幸之助さん自身が、人生最後の著書で、「ぼくが今日あるのも、ぼくの将来を心から祈ってくれた母の切なる願いの賜物」と言っているのですから。
● 紀之川の 駅のホームの 母の顔 卒寿越へしも なほ恋しけり
松下幸之助は、事に当たり「深刻に考えず、真剣に考える」ことが経営では大切であると言っています。
自分でコントロールできないことを手放し、コントロールできることに集中するということではないでしょうか。
しかし、何事も一人で解決するには限界があるといわれています。一緒に解決策・打開策を考えませんか。