松下幸之助さんは、「何事も融通無碍だ」と言う人がいる。実際に、松下さん自身、「融通無碍ですわ」と言っていた。しかし、その言葉通りに捉えるだけでは、その真意を理解しているとは言い難い。
ご承知のように、信長を評して、「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」。秀吉は、「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす」。家康は、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」がある。「それらのいずれですか」と、松下さんが問われた時、「いずれでもありませんね。私なら、鳴かぬなら それもまたよし ほととぎす。まあ、融通無碍ですわ」と応じている。
多くの人たちは、このひと言をもって、「松下さんは融通無碍」と感嘆している。しかし、自由律俳句の俳人、種田山頭火(1882~1940)は、すでに、「鳴かぬなら 鳴かなくてよい ほととぎす」と言っている。松下さんの「それもまたよし」と、山頭火の「鳴かなくてよい」は、意味するところは、同じだろう。ともに、「融通無碍」で、鳴かぬほととぎすを捉えている。
だが、その次の瞬間、松下さんと山頭火の「行動」は全く異なってくる。山頭火は、「鳴かなくてよい」と言って、その場を立ち去るだろう。しかし、松下さんは、「それもまたよし」であっても、「では、その鳴かぬほととぎすを、どう処遇すればいいのか」と考える。そして、礼をもって対処する。「鳴かぬほととぎす」を、そのままにして立ち去ることはない。
だから、松下さん本人が、「融通無碍と言うから、融通無碍なんだ」と捉えるのは、短絡的すぎる。松下さんの言う、「融通無碍」は、ありのままに「容認」すること、そして、鳴かぬほととぎすを、どう「処遇」すれば、最適か。その結論が出れば、「礼」を持って対処する。ある意味、松下さんの「融通無碍」には、「峻烈さ」が含まれている。
事実、新幹線の車内で、車掌に暴力をふるい、周囲から即退任を進言された松下さんは、「あれほど営業に長けた人はいない」と容認しつつ、2年後、その専務に丁重に話しをして、退職させている。
松下さんは、「融通無碍な人です」と話す人は、「松下幸之助の峻烈さ」を直接、見ていないからだ。松下幸之助と言う人は、それほど、「大甘な人」ではなかった。だから、松下さんが、こう書いているから、こうだと、その言葉、文字だけで解釈し、話をすべきではない。その言葉、文字の奥、また、松下幸之助思想の全体を知ったうえで語るべきだということである。
松下幸之助は、事に当たり「深刻に考えず、真剣に考える」ことが経営では大切であると言っています。
自分でコントロールできないことを手放し、コントロールできることに集中するということではないでしょうか。
しかし、何事も一人で解決するには限界があるといわれています。一緒に解決策・打開策を考えませんか。