松下幸之助さんは、昭和39年(1964)、アメリカの『ライフ』誌に、「最高の産業人、最高所得者、思想家、雑誌発行者、ベストセラ―著者」として紹介された。しかし、多くの学識者は、松下さんを、「思想家」として取り上げることは、ほとんどない。なぜならば、平易な文章の奥が読み取れない、あるいは、眼光紙背に徹する力がないからだ。また、折々の取材や講演などの発言で、松下さん自身が、その場に合った異なった言葉を使うから、なおさらである。だから、学識者たちも、「思想家」のところだけは、スルーする。
確かに、「根源」、「自然の理法」、「王者」、「君臨」、「支配」、「天命」などの言葉が、平易な文章の間に散りばめられていれば、それらの用語も平易に捉え、結局は、全体が訳が分からなくなるからだろう。それらの用語で、「不遜だ」、「傲慢だ」という人もでてくる。
しかし、人間が人間を殺すのは許されないのに、人間が牛を殺し食べ、また、魚に出刃を入れ捌き食するのは、許されるのか。ということを形而上ではなく、現実的に考える必要があろう。人間は、組み体操の一番上に位置している。だから、一番上の人間が、暴れたならば、組み体操が崩れ、頂点から落下し、命を落とすことにもなる。ゆえに、人間を支えている万物を万物たらしめる責務が人間には、あるということである。
松下さんの思想の一切は、一本の枝に葡萄の房がぶら下がっているのと同じ。だから、この「枝」のところを理解しなければ、葡萄の一つひとつの房である、経営も、政治も、経済も、そして、国家観、世界観も正確に論ずることは出来ないと言える。
それでは、その「枝」である松下思想は、なんぞや。それは、「人間大事」ということに尽きる。実際に、松下さんが、自分の主張したいことは、「人間大事」だと言っている。昭和57年、『新潮45』の創刊号で、「人間を大事にする。これが根本だ。松下イズムと呼ばれるものがあるとすれば、それは人間を大事にすると言う以外にない」と言い切っている。要は、松下幸之助思想をひと言で言うならば、「人間大事」ということ。それに尽きる。
「いっさいは人間のために」、「すべては人間からの出発」。これらの言葉を、最終的に削除したが、『人間を考える』の最終頁に入れようとした。そこにこそ、「人間大事」という松下思想が凝縮されている。その「あぶり出し」が出来るかどうか。その人の力量によるだろう。
松下幸之助は、事に当たり「深刻に考えず、真剣に考える」ことが経営では大切であると言っています。
自分でコントロールできないことを手放し、コントロールできることに集中するということではないでしょうか。
しかし、何事も一人で解決するには限界があるといわれています。一緒に解決策・打開策を考えませんか。